リストの作品一覧と紹介
フランツ・リスト(Franz Liszt,1811-1886)とピアノ音楽
(1)リストへのまなざし
「愛の夢」、「ため息」、「コンソレーション」。フランツ・リストが甘美な旋律を持つ作品を書いた作曲家であることは多くの人がご存知だと思います。しかし、最も重要なのはリストが19世紀を代表する大ピアニストだったこと、そして、彼こそが現代一般的な「ピアニスト」の創始者とも言うべき存在だったことです。普通「ピアニスト」と言えば、巨大なコンサートホールで何百人もの前でピアノ演奏する職業を想像すると思いますが、ピアノとピアニストにそれだけのスケール感を与え、総合ステータスを高めた男こそがリストです。
フランツ・リストの登場以前は、ピアニスト一人がコンサートを構成するということはなく、管弦、歌曲、あるいは複数ピアニストによるジョイントのようなものがほとんどでした。つまり、現代のように一人のピアニストが2時間も3時間も聴衆を身じろぎさせずに集中させるという文化は割と歴史が浅いものなのです。もちろん私的な演奏会として比較的長時間の独奏を行うことはあったでしょうが、ほとんどが上流階級のサロンの雰囲気で、飲食も談笑もあったといいます。つまり、リストの功績を理解する上で、ピアニストというのは決して今日のような権威的職業ではなく、むしろ演出家として場を盛り上げるために活躍していた、ということをまず押さえねばなりません。
リストは幼少から「モーツァルトの再来」と呼ばれるほどの天才ぶりを発揮し、デビュー以来華々しい活動をしていました。しかし、19歳の時にニコロ・パガニーニ(1782-1840)という一人の鬼才ヴァイオリニストの演奏によって圧倒的な技術力と悪魔的響きに魅了されたリストは、「ヴァイオリンに出来ることは当然ピアノでもできる。聴衆の心を圧倒的に揺さぶるような演奏をしたい」と考え、猛練習を始めました。もとよりカール・チェルニー(1791-1857)の指導によって堅固に培われていた基礎技術力を遥かに高め、多くの形式や装飾音型の技術を応用、補強し、さらなるステップへ開花させるような練習曲を次々に書いていったのです。劇場一つを完全支配しようとする志向もさることながら、それを可能にする技術の考案は、それまでのピアノに対する価値観において革命的でした。鍛錬で「ピアノのパガニーニ」になるだけの実力を蓄え、史上初の「リサイタル」(ピアニスト一人で完結する演奏会)(注1)を1839年に行ったリストは、それ以後さらに豪華絢爛なヴィルトオーゾ時代を歩んでいくことになったのです。リサイタルというスタイルの確立は、リストの資質(容姿を含め)と覇気、そして不断の努力によるものです。「演出家」は、舞台上でまばゆいスポットライトを浴びる「芸術家」となったのです。
(2)リストが目指した「芸術家」と「音楽」
リストは激しい失恋の理由となった自分の高くない家柄と、ピアノの才能一つで聴衆から容易に賛辞を受けてまるで貴族のように振舞えるという矛盾に苛まれていました。その苦しみを押さえ込むかのようにして高い知識欲が生まれ、多くの書物を読みふけることによって深い信仰心が育まれたとされます。リストを生来的な楽天家ととる人もいるようですが、先の環境がリストの複雑性を形成していったことは想像に難くありません。その後「音楽は本質的に宗教的である」という信念を掲げ、音楽と宗教を結びつけようと努力しました。教会の役割=「人々の生と死において幸福と安らぎを与える」という貴重な使命を音楽に添加させることで、結果的に芸術家の立場が向上することを望んだのでしょうか。ただただ貴族に媚を売って日々を暮らす芸術家の不毛さをよく理解し、思想家たちの崇高な理想と敬虔な精神をいかに音楽という手段で伝えていくかはリストにとって半生をかけた仕事でした。
さて、ピアノテクニックの向上によって芸術家の相対的地位の向上を目指したことは先述したとおりですが、ルイ=エクトル・ベルリオーズ(1803-1869)という作曲家の「幻想交響曲」に影響され、後に「交響詩」という新しい音楽ジャンルを確立するに至った経緯とその功績も、リストを知る上では重要なことです。「交響詩」を簡単に説明すると、各個人に自由な音楽解釈を任せるのではなく、詩によって場面設定をした上で音楽を演奏する方法ですが、リストは若い頃からその下地となる「標題音楽」なるものを標榜していました。標題音楽にせよ交響詩にせよ、それ自体が目的となる絶対的な音楽と相反するということが基本的な考え方です。晩年にはドビュッシーの「水の反映」やラベルの「水の戯れ」に直接影響を与えた「エステ荘の噴水」という印象主義的作品を残していますが、すなわち詩的な抽象描写が具体的な描写主義に変わったというものであって、本質的に音楽が印象と切り離せないものだとする主張に変わりありません。
そうした細かいことはさておき、「音楽に言葉をつける」という意味を少し掘り下げてみましょう。
たとえばドファラファソという5つの音を奏でるとします。もちろん何も言及しないでピアノで弾いて聞かせるのも一つの演奏法になります。しかし、「この音楽は私が過ごした学校の放課後をモチーフにしています」と聞かされてから聞くとどうでしょう。恐らく目の前には情景が広がり、より具体的な印象と感情が音楽に刻まれるのではないでしょうか。たとえばそういう効果です。これにより作曲家の意図から遠くはずれ、極端な主観的テンポで弾き流したり弾き伸ばしたりする演奏家もいなくなります。言葉を加えて何かを連想させるということで、奏者と聴き手を共通の緊張関係に誘い、より多くの人のイメージを高い精度で収斂させることが可能になるのです。これは統率力の連想=「英雄思想」とも直結する手法です。
リストの「交響詩」への道程=標題音楽への傾倒も大きく捉えれば芸術家の地位向上と関わっています。すなわち音楽といえどもサロンのような自由な雰囲気の創造だけではなく、息を潜めて聞き耳を立てるような厳粛な雰囲気や、逆に破壊的で熱狂的な雰囲気を創造するチャンスがあると考えたのです。そうした総合的な劇場創造の役割を芸術家が一手に担うことができれば、それこそが支配力の証、芸術家が誇りと存在価値を高めるきっかけになるだろうと考えたのです。音楽に詩を先立たせる、あるいは音楽に情景を想像させる、解釈を一つにまとめるといった試みは、ヴィルトオーゾとしての活躍、標題音楽の支持、交響詩の発明、そして印象派主義へというリストの音楽観そのものの具現化です。「標題音楽」、「交響詩」に関しては当時多く批評家や作曲家の間で激しい議論が交され、現代においても細かい定義は出典によって異なり、曖昧な部分も多くあります。しかし、いずれにせよ音楽を才能あるものにとってただの自己完結の産物に終わらせるのではなく、絶対音楽という内省的な自己満足の壁を突き破り、芸術を英雄的な支配力、あるいは宗教的な安らぎを与えるものへと昇華させることがリストの願いだったのです。リストの音楽性をあまりよく思わない人は、このあたりの功績や視点の置き方がおざなりなことが多いです。
(3)ショパンとリスト
先述の「愛の夢第3番」など、リストによる歌曲は非常に流麗で美しい旋律に満ちています。「ロマン」という言葉が最もよく当てはまる作曲家であることに違いないでしょう。ただ、19世紀は名作曲家が次々に生まれていった時代ですから、リストが群を抜いて作曲能力に優れていたということは難しいでしょう。同時代に生きたフレデリック・ショパン(1810-1849)の存在はリストを語る上で最重要人物とも言えます。彼も8歳から公演を行うなど幼少期から「ポーランドのモーツァルト」と呼ばれ、今日ではリストが「ピアノの魔術師」と言われるのに対し「ピアノの詩人」と形容されます。書物でもロマン派を代表してあからさまに「ショパンVSリスト」に並べられることも珍しくありませんし、実際にライバルとしてお互い強く意識していた時期がありました。
二人のピアノに対する向き合い方は全く異なっていました。社交性が高く、ステージパフォーマーとしての資質が高かったリストに対し、ショパンの存在感は強くなく、どちらかというと作曲能力で目立った頭角を表した存在です。(注2)ショパンの日陰に隠れた演奏活動をカバーするかのように、リストはショパンの練習曲Op.10全曲初演を始め、ショパンの曲を積極的に演奏して世間に広める努力を惜しみませんでした。ピアノロールさえまだ存在しない当時、芸術家の作品発表の場は限られ、実力というよりも交流の広さによっていかに自作品が演奏されるかが重要でした。つまり、リストは現代に繋がる「ショパンブーム」に一役買ったのです。リストは「ピアニスト」の土壌を固めた点=ハード面での評価、ショパンはその作品内容=ソフト面での評価として分けて捉えるとわかりやすいでしょう。もちろん二人によるロマン派音楽成熟の歴史的役割を明確に区分することは極めて乱暴な行為ですが、音楽の普及にさほど労を要しない現代において改めてリストを再評価をするためには、このくらいの強調がされても差し支えないでしょう。
もう少し具体的なことを言えば、演奏スタイルそのものに大きな違いがあったことを示す代表的な証言があります。ウィルヘルム・フォン・レンツ(1809-1883)というリストとショパンの双方にピアノを習った経験があるドイツ系ロシア人(アマチュア音楽家・ペテルブルグ宮廷顧問官)がいるのですが、1842年に彼がリストの紹介でショパンを訪ねた折、自分の演奏を聞いてもらったときにショパンに言われた言葉があります。
…「そういう弾き方は、あなたのではないでしょう。そうでしょ。リストはそういう風に弾きましたか。彼はいつもそうなんです。彼は何千人もの人に聞かせるように弾くんですよ。でも、私はただ一人の人に聞かせるように弾くんです。」…(『19世紀のピアニストたち』千歳八郎著 音楽之友社より抜粋)
ショパンは外面的には皮肉を言っていますが、自身がコンサートホールで頭角を現すことのできなかった事実を考えれば一種の嫉妬にも聞こえます。事実、若年の頃はわりと純粋にリストの演奏スタイルを賛辞する言葉を残しています。ショパンの作品を絶賛し、コンサートで愛奏していたリストと、リストの華々しい奏法に惹かれながらも年を経る毎に軽蔑を表意していたショパン。ショパンとリストの性格を含めた好対照ぶりは見事です。リストの「腰から弾く重量奏法」、ショパンの「肘を固める奏法」など、奏法の違いについても確かに重要なことですが、それよりも「音楽を誰に聞かせようとするのか」、という根本が全く異なる二人が、同じロマン派のピアノ界を先導した事実が注目されるべきであり、少なくともこのような絶妙な関係性こそが、彼らの音楽家としての彩色を際立たせていたことは間違いないでしょう。
(4)リストによる編曲作品の存在意義
ピアニストのマウリツィオ・ポリーニがリストのソナタと共に晩年作品を取り上げたことが話題を呼んだこともあって、近年は晩年の作品がリスト再評価の代名詞として定着しています。しかし、スケールが大きくて煌びやかなリストのオペラ編曲(ここではトランスクリプションとパラフレーズを区別しません)作品は、そのうちの多くが未だに注目されていません。その理由は単純なもので、多くの人が原曲を知る機会がないということに尽きます。ベートーヴェンの交響曲編曲だけが例外的に人気なのはそういう理由です。もちろん広義の編曲作品という意味ではパガニーニ大練習曲なども入りますが、あれだけ印象的な旋律モチーフならまだしも、一度も触れたことのないような交響作品やオペラのピアノ編曲を始めから愛好する人は少ないでしょう。コアな総合クラシックファンは例外にするとして、通常のピアノ愛好家にとってはハワードのリスト全集以外の音源に触れることができない原曲が数多いという事実は、様々な面で足かせとなります。「原曲ありき」という存在意義にかこつけられて、盲目的に編曲そのものの意義も軽んじられてしまうことだけは避けなければなりません。
クラシックのピアノ作品といえばもちろんオリジナル作品がメインですが、それとはまた別の次元でオペラや弦楽、歌曲、あるいは声楽の原曲を知っていると楽しめるというのがリスト編曲ものの醍醐味です。事実、総合クラシックファンやオーケストラやオペラ、歌曲といったピアノ作品以外からリストを知る人の方が、リストを高く評価していることは多々あります。逆に言えば、ピアノ好きの人がリストのピアノ編曲作品を楽しむためにはそれなりの勉強が必然になってくるのでしょう。もし原曲が取るに足らないものだとするならば、なおさらリスト編曲を念入りに聞き込まなければ曲の価値を理解できないということになります。
リストが生きた時代と比較し、現代では絶対的なピアノのレパートリーが圧倒的に増えました。特にオケ、オペラ編曲作品を取り上げなくても膨大なピアノ独奏作品だけに注力していれば十分にリサイタルが成り立ちます。リストのおかげでピアノとピアニストの地位は確保されましたが、その分当時よりも他の楽器に目を向けなくなり、ピアニストやピアノ愛好家が少しずつピアノの世界だけで閉鎖的になっていることは否めません。つまり、まだ見ぬリストの編曲作品の多くは、単純に不出来で面白くないから見捨てられているのではなく、ピアノが自立したことで評価される機会を逸し、行き場を失っているという解釈も可能なわけです。
(5)オリジナル作品に見る「死」の旋律
親交ある友人が作曲した交響的作品の構成力に圧倒されたリストは、自己の創造性や作曲能力に磨きをかけることにも成功しています。それが証拠に、パガニーニ大練習曲、超絶技巧練習曲を始め、若年に書かれた曲の改訂版の多くは、バラエティに富む演奏効果の高い仕上がりになっています。特に、以前からベルリオーズの幻想交響曲や彼に勧められたゲーテの「ファウスト」に感銘し、悪魔的な音律を仕込むことでより生と死を結ぶ本質的な迫力を得ようとする立場にあったこと。そして、1833年にベルリオーズの紹介で知り合ったマリー・ダグー伯爵夫人(1805-1876)との間に生まれた子供の相次ぐ死によって、終生「死」の問題が身近にあったリストにとって、死のイメージ=悪魔性そのものが彼の音楽的個性へと昇華されました。また、晩年はカロリーネ・ザイン・ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人(1819-1887)との長年に渡る結婚問題などで「諦め」の境地を悟ったことも大きいでしょう。(注3)一言で言えば、自らが目指した「ピアノにおけるパガニーニ=悪魔的英雄」という立場と、「死」に身近な自らの境遇は密接な対話関係にあり、それが音楽で融合表現されたのです。これらがリストを語る上で「死」のテーマを差し置くことのできない理由です。
具体的に死のテーマが表れている最もわかりやすい例はグレゴリオ聖歌の「怒りの日」をヒントに得た「死の舞踏」(S.126→S.525→S.652)です。元の聖歌を聴けば、いかにリストの霊感と音感が優れていたのかがわかります。しかし、それでなくとも今日大曲として親しまれているソナタ風幻想曲≪ダンテを読んで≫(S.161-7)を始め、ロ短調ソナタ(S.178)、あるいは各メフィスト・ワルツも悪魔的で不気味な音程が多用されています。晩年は、印象派の音楽に腰を落ち着けないままに無調の音楽に移行するリストの方向性にはまだまだ筆者も理解できない部分が多いのでなんとも言えませんが、少なくとも10分を超える彼のオリジナル大曲であれば大抵「深い深淵」を想起させるフレーズや「オドロオドロしさ」に満ちた個性的な音型が含まれています。
問題視すべきはそうしたテーマへの一般的無関心です。ショパンに代表される作品により、悲愴的なテーマのカタルシスという作用はよく共感されるところですが、死そのものについては「不気味、不幸、不吉、触れてはいけないもの」としての忌避感が強く、なかなかピアノ表現には馴染みにくいテーマです。ロマン派が【主観的に詩的情緒を織り交ぜ、半音階や不協和音を取り入れるという手法を取る】と定義するならば、リストは不協和音や無調の連続という手法に頼ることなく、努めて倹約的、あるいは厭世的な和声体系でロマン派を成功させたと言えます。純粋に甘美で愛欲的な表現をし切るという通常のアプローチではなく、「空気も失いそうな殺風景」からロマン派を創出することに成功したということです。もちろん「死の旋律、悪魔的芸術」を好むかどうかは人それぞれだとは思いますが、私見では十分に親和性のあるテーマだと思います。現にダンテソナタやメフィストワルツが一定の人気を博していることからもそう判断して良いでしょう。より悪魔的な表現が象徴的に示される作品として、スケルツォと行進曲(S.177)も大変重要な作品です。
(6)リストによる種々の功績
もともと芸術家の地位向上のためには労を惜しまなかったため、基本的に36歳にピアニストとしての演奏活動を終えてからのコンサートはほとんどがチャリティでした。また、社交性に優れ、彼のもとを訪ねてくる者に対しても友好的であったので、リストは教育者として莫大な数、約200名とも400人とも言われる生徒を無償で教えていました。そのため弟子から現代に繋がるピアニストの系譜は驚くほど膨大です。現代ピアニストでリストの影響を直接・間接的に受けてないものはいないと考えてもよいほどでしょう。また、今でこそ公式な演奏能力の評価基準になっている「暗譜力」ですが、リサイタル同様これもリストが始めた試みであり、それまでは作曲家への敬意として演奏中は楽譜を見るのが常識だったことも追記しておきます。
そして、リストがハード面でピアニストの土壌を固めたと先述したのは、芸術家の地位だけではありません。フォルテピアノそのものについてもそうです。もともと1820年代までには既にダブルアクションで鉄骨作り、デザインもほぼ現代に近い形で出来上がっていました。しかしリストは自身の巨大な楽曲に求められる音量は妥協せず、非常にハードな打ち鳴らしをしました。もちろんそうした打鍵を想定していないピアノはすぐに壊れ、当時最高の性能を誇ったエラール製のピアノを含め、コンサート用にピアノを複数用意しないと一晩さえももたない状況であったことはよく知られています。そうした無残なピアノの状況を実際目の当たりにしたベヒシュタイン社の創始者カール・ベヒシュタイン(1826-1900)は、「リストの演奏に耐えられるものを」というコンセプトで、ピアノに改良を加えました。その改良のおかげで、リストの強靭なタッチに耐え凌ぐばかりか、俊敏な反応、重低音を中心とした全体的な響きと艶のある音色を生み出すピアノが誕生したのです。リストは後にベーゼンドルファーや、晩年にはアメリカのスタイン・ウェイやチッカリング製のピアノも使いましたが、いずれにしてもベートーヴェン以来の大幅な耐久性向上に向けて、各社ともフランツ・リストの壮絶な奏法を耐久性の基準にしました。まさにピアニストだけでなくピアノの歴史も大きく変えたと言えるでしょう。プロピアニストにとって、いかにフランツ・リストの果たした役割や存在が重要であるか、おわかりいただけると思います。
(補筆)
当サイトはピアノ好きの管理人によって作成されており、ピアノを中心としたリストの紹介となっています。オーケストレーションに関しては弟子のヨアヒム・ラフ(1822-1877)とアルベルト・フランツ・ドップラー(1821-1883)によるところが大きいという説が有力で、実際リストが全く関わらなかった管弦楽化作品(ハンガリー狂詩曲など)があることも軽視できません。交響詩や管弦楽のオーケストレーション、声楽やオラトリオなど、ピアノ以外でリストを愛好されている方もいらっしゃると思いますが、ピアノに生涯をささげたショパン同様、「ピアノ史に半永久的に名を刻まれた大偉人」としてリストを紹介する意義に幾ばくかのご賛同をくだされば幸いです。
【注釈】
※注1 この時のリサイタルはロンドンのハノーヴァー・スクウェア・ルームズで行われ、曲目はオーケストラ、歌曲のピアノ編曲であった。
※注2 音色に腐心し、自身の繊細な響きが表現されない大きなホールでの演奏に見切りをつけたショパンは、1835年以後作曲に没頭した。
※注3 カロリーヌ伯爵とのカロリーヌの離婚が認められず、挙句謀略にあって終生リストとの結婚が叶わなかった。
【参考文献】
・『大作曲家リスト』(エヴェレット・ヘルム著、野本由紀夫訳 音楽之友社)
・『人と作品シリーズ リスト』(福田弥著 音楽之友社)
・『19世紀のピアニストたち』(千歳八郎著 音楽之友社)
・『クラシックCD エッセンシャルガイド100 ピアニスト編』(学習研究社)
・ムジカ・ブダペスト版新リスト全集各楽譜 他
フランツ・リストの略歴(年表)
1811年・00歳 1817年・06歳 1820年・09歳 1822年・11歳 1823年・12歳 1824年・13歳 1825年・14歳 1826年・15歳 1827年・16歳 1828年・17歳 1830年・19歳 1832年・21歳 1833年・22歳 1834年・23歳 1835年・24歳 1837年・26歳 1838年・27歳 |
オーストリアのライディング生まれ(10/22) 初めて父(アダム・リスト)にピアノレッスンを受ける ショプロンにてピアニストとしてデビュー 家族でウィーンへ移住。共用言語をドイツ語からフランス語へ ウィーンでデビュー演奏会 カール・チェルニーによる厚意により無償でピアノレッスンを受け始める アントニオ・サリエリに無償で作曲を教わる アントワーヌ・レイハに音楽理論を教わる フェルディナンド・パエールに作曲を教わる パリ、イギリスでデビュー演奏会 イギリス演奏旅行 フランス演奏旅行 イギリス演奏旅行で憔悴した父が死去 パリに戻り、ピアノレッスンを始める レッスン生徒であるカロリーヌ・ドゥ・サン=クリック伯爵令嬢との失恋 演奏活動停止で引きこもり、リスト死亡の噂が流れる サン・シモン主義者たちと交流を始める へクトル・ベルリオーズと出会い、幻想交響曲に触れる フレデリック・ショパンと交流を始める ニコロ・パガニーニのヴァイオリン演奏に驚嘆し、 技術の向上に開眼する マリー・ダグー伯爵夫人と出会う 本格的演奏活動の再開 ジョルジュ・サンドと出会う マリー・ダグー伯爵夫人と共にスイスへ旅行、後イタリアへ。 長女ブランディーヌ誕生(12/18) ジュネーヴ音楽院でレッスンを始める 単身パリへ戻り、ジーギスムント・タールベルクと対決 次女コージマ誕生(12/24) 単身ウィーンへ行き、ハンガリー大洪水の被災者救済慈善演奏会を開く その後、イタリア各地で演奏会 |
ヴィルトオーゾ時代 (演奏活動中心) |
|
1839年・28歳 1840年・29歳 1842年・31歳 1843年・32歳 1844年・33歳 1845年・34歳 1846年・35歳 1847年・36歳 |
ローマで史上初の「ピアノ・リサイタル」を開く 長男ダニエル誕生(5/9)、マリーは子供たちと共にパリへ 久々に帰国したハンガリーを演奏旅行 指揮者デビュー ドイツ、イギリス各地を演奏旅行 ドレスデンの演奏会にてロベルト・シューマンに出会う アントン・ルービンシュテインと出会う ベルギー、ロンドン、ヴァイマル、ベルリン各地を演奏旅行 ヴァイマル宮廷楽団の臨時宮廷学長に就任 オランダを演奏旅行 ドイツ各地、ポーランドを演奏旅行 マリーと訣別 ドイツ、フランス各地を演奏旅行 スペイン、ポルトガル、フランス、スイスで演奏会 ヨアヒム・ラフが一時的にリストの秘書を務める ウィーン、ハンガリー、ルーマニア各地を演奏旅行 キエフの演奏会でカロリーヌ・ザイン・ヴィトゲンシュタイン公爵夫人と出会う ヴォロニンスにあるカロリーヌの領地へ赴く エリザベトグラードでピアニストとして最後の演奏会 |
ヴァイマル時代 (作曲活動中心) |
|
1848年・37歳 1849年・38歳 1850年・39歳 1854年・43歳 1855年・44歳 1856年・45歳 1857年・46歳 1858年・47歳 1859年・48歳 1860年・49歳 1861年・50歳 |
ワイマール宮廷楽団の常任学長に就任 ドレスデンから逃亡してきたワーグナーを匿う ショパン死去に伴い、カロリーヌと共にショパンの伝記を著す ハンス・フォン・ビューローが弟子となる ワーグナーの「ローエングリン」世界初演を指揮 カロリーヌが病に冒され、バート・アイルゼンで保養をとる 交響詩「オルフェウス」、「レ・プレリュード」、「タッソ」を初演 シューマンの「アルフォンソとエストレッラ」の世界初演を指揮 カール・タウジッヒが弟子となる 「グランのミサ」、「ハンガリー」を初演 ビューローが「ピアノ・ソナタ」を初演 次女コージマがビューローと結婚 「ダンテ交響曲」を初演 長女ブランディーヌがエミール・オリヴィエと結婚 弟子であるペーター・コーネリウスの「バグダッドの理髪師」初演が妨害され、後にデモが起こる ヴァイマル宮廷学長を辞任 リストを会長とした全ドイツ音楽教会が設立される リストの後見であるパヴロヴナ皇太后死去 カロリーヌの娘マリーがコンスタンティン・ホーエンローエ侯爵と結婚 長男ダニエル死去 ヨハネス・ブラームスとヨーゼフ・ヨアヒムが新ドイツ派に反対する論文を『エコー』誌で発表 コージマが初孫ダニエラを出産 カロリーヌとの結婚が不成立となる |
ローマ時代 (教会音楽作曲活動中心) |
|
1862年・51歳 1863年・52年 1864年・53歳 1866年・55歳 1867年・56歳 1868年・57歳 |
ブランディーヌがダニエルを出産(7/3) ブランディーヌが死去 コージマがブランディーヌ・エリザベトを出産 下級聖職者になる 母(アンナ・リスト)死去 「ハンガリー戴冠ミサ」を初演 コジマがビューローと別離 |
ブダペスト・ヴァイマル・ローマ時代 |
|
1869年・57歳 1870年・58歳 1871年・59歳 1872年・60歳 1875年・64歳 1876年・65歳 1877年・66歳 1878年・67歳 1880年・69歳 1881年・70歳 1882年・71歳 1883年・72年 1884年・73歳 1885年・74歳 1886年・ ↓ |
カール・アレクサンダー大公の度重なる要求に応じ、ヴァイマルへ戻る 「宮廷園芸農園」の家が提供され、レッスンを始める コジマはビューローと正式離婚し、ワーグナーと結婚 ハンガリー宮廷顧問に就任 ワーグナー夫妻がヴァイマルのリストを訪ねる リストがヴァイロイトのワーグナー夫妻を訪ねる ブダペスト音楽院の名誉学長に任命される マリー・ダグー伯爵夫人死去 ウィーンでフェルッチョ・ブゾーニに出会う モーリツ・ローゼンタールが弟子となる アルトゥール・フリードハイムが弟子となる ヴァイマルでイサーク・アルベニスに出会う 階段から落下し、大怪我 怪我の後遺症、目、心臓の疾患その他、以後の体調優れず ワーグナーに招かれ、ヴェネチア訪問 ワーグナーがヴェネチアで客死し、追悼演奏会で指揮する オイゲン・ダルベールが弟子となる サン・サーンスからガブリエル・フォーレを紹介される アレクサンドル・シロティが弟子となる ブダペストでヨハン・シュトラウス2世と出会う エミール・フォン・ザウアーが弟子となる フレデリック・ラモンドが弟子となる ローマでクロード・ドビュッシーと出会う 画家ムンカーチ・ミハーイ邸で演奏会 ルクセンブルクで生涯最後となる演奏会 ドイツのバイロイトにて客死(7/31) |
Copyright 2006 LISZT-STYLE |