Aya Nagatomi Piano Recital
【演奏会名】長富彩 ピアノリサイタル
【日時・場所】2007年06月25日 19:00~・ルーテル市ヶ谷 音楽ホール(東京)
【プログラム】
1. ソナタ K.310(モーツァルト)
2. 水の戯れ(ラヴェル)
3. ヴォカリーズ( ラフマニノフ=ワイルド)
4. ハンガリー狂詩曲2番(リスト)
5. パガニーニ大練習曲3番「ラ・カンパネラ」(リスト)
6. アンダンテスピアナートと華麗なる大ポロネーズ(ショパン)
7. ソナタ ロ短調(リスト)
(アンコール)
・練習曲 Op.10-4(ショパン)
・子供の情景 Op.15-7 トロイメライ(シューマン)

6月25日はケマル・ゲキチのリサイタルへ行く予定だったのですが、当日になってプログラムをゴッソリ入れ替える荒業。ポゴレリチ、ワッツと、自分が気になるリサイタルは曲目変更が多いのですが、まさに「ゲキチよ、おまえもか…」と嘆息が漏れます。相次ぐピアニストの曲目変更は、フランツ・リストの巨人ぶりを黙示していますが…個人的に、何かしらのコンディションが整わないことを理由にして当初予定していた曲目を変更するのは職業人がして良いこととは思いません。そういうイレギュラーを褒めちぎるディレッタントもいますが、それなら最初から「曲目未定」にすべき、というのが持論です。本当に自分のブランドだけで勝負しているのならば、それでなんらの問題もないはずです。と言えども、調子の良し悪し、主催者側の裁量など、色々と兼ね合いがあるのでしょう…云々かんぬん。
愚痴はともかく、ゲキチを見限った同日、急遽国内の若手のリサイタルに行ってみました。CD、DVD発売記念、ハンガリー国立リスト音楽院に在籍中の長富彩。経歴を見ると、小菅優やアリス・紗良オットと同じく日本での活動よりも海外での活動や評価が気になります。そして、なんといってもボリューム感のある意欲的なプログラムに注目です。
出鼻はモーツァルトのソナタ。外見のあどけない感じとは裏腹に、スレンチェンスカやブレハッチのようなマッスルタイプです。一音一音がゴリゴリひしめき合うような、文字通り「指筋」由来のフォルティッシモがやや無骨に感じられますが、それをカバーするような急速に縮むピアニッシモは聴き応えがあります。水の戯れはモーツァルトで見せた美しいピアニッシモの全貌が顕になりました。ただし、ゆったりしたテンポ設定で、かつ全体的にペダルも薄いので、少しばかり質素に聴こえます。ヴォカリーズは若干のくどさを滲ませます。マクロのダイナミックスは十分あるのですが、分厚い音系に対応するミクロの脱力箇所がありません。ワイルドといえば硬派でありながら寄り道するような注釈がたくさんついた遊び心全開の音楽が魅力なのですが、彼がどのような音を愛でて編曲していたのかという原点を意識してもらった方がいいかもしれません。ハンガリー狂詩曲2番も随分と勿体がついて重鈍です。フリスカ部分だけで音楽が完結してしまう勢い。また、ラッサンとの対比があまり感じられなかったのが気になりました。テンポを抑制したままなのであれば、フォルティシモ音域でタッチのバラエティを増やすなどの工夫があると良さそうです。カンパネラは細やかなパッセージの処理が安定しています。曲の解釈も前半のプログラムで最も自然なものに映りました。
休憩をはさんでアンダンテスピアナートと華麗なる大ポロネーズ。アンダンテスピアナート部分はやはり低速設定でしたが、ポロネーズは繰り返し毎に徐々に息を吹き返すような微妙なコントラストがあります。というよりも、いつも無理にテンポを落としているのでしょうか(?)また、モーツァルトでも感じましたが、装飾トリルの上手さが殊更目立ちます。ロ短調ソナタは曲が曲だけに奏者の適性を期待したのですが、各フレーズの自己主張が強く、まるで脇役のいない演劇を見るような疲労感があります。また、せっかく持続的な集中力があっても、不用意な譜読みミスでくじかれてしまったり、どことなく未完成な雰囲気を隠せません。アンコール一曲目はショパンの練習曲Op.10-4です。安定した跳躍とさざ波のように畳み掛ける流麗なアーティキュレーション。本日の重々しい流れに爽やかなアクセントが付きました。2曲目はトロイメライで、再びプログラムの演奏内容を集約したようなドッシリとした解釈でした。
癖の強い指導者に薫陶を受けているのか。今日は特別だったのか。重いピアノに合わせたのか。いずれにしても、youtubeにあがっている奏者の動画(カンパネラ)を見る限り、コンサート外ではもっと自由に弾いている雰囲気が感じられます。「練習に練習を重ねました」という精神論を背負ったような、重く、抑制の効きすぎたさばき方は、編曲ものやアクロバティックな技巧を多用している作品にとってハイリスクです。ハイフィンガー法に代表される「全ての音をシッカリ鳴らす」という金科玉条を揮うのではなく、むしろ表現の上での作為性を軽減する方向で取り組んでほしいように感じます。日本人のクラシックピアノ演奏に「窮屈さ」が付きまとう現状はここ何十年と受け継がれてきていますが、海外組としてこれから何を吸収して成長していくのか注目です。
|