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  DEZSÖ RÁNKI Piano Recital

20101111concert【演奏会名】デジュー・ラーンキ ピアノリサイタル
【日時・場所】2010年11月11日 19:00~・すみだトリフォニーホール(東京)
【プログラム】
 1. ソナタ52番(ハイドン)
 2. トッカータ S.197a(リスト)
 3. メフィスト・ポルカ S.217(リスト)
 4. 即興曲 S.191(リスト)
 5. 聖ドロテアを讃えて S.187(リスト)
 6. ソナチネ 1~3楽章(ラヴェル)
 7. ソナタ ロ短調(リスト)
 (アンコール)
 ・ピアノ小品 S.193(リスト)
 ・子供の領分1番 「グラドゥス・アド・パルナッスム 博士」(ドビュッシー)


 今年の初め頃からラーンキやデミジェンコというリストファンにとっては重要なピアニストの来日について予告されていましたが、すべて協奏曲のラインアップで少々ガッカリしていたところ。しかし、ここにきてようやくラーンキのソロが堪能できました。しかもバラエティに富む素晴らしいプログラム!

  ハイドンのソナタ52番(ウィーン原典版:62番)はご承知のとおりベートーヴェンのソナタを思わせる重厚さを持った作品です。デビュー当時から変わらない模範的な中音域の瑞々しさ、無駄な詮索のないフレーズ表現に加え、強拍の低音部や繊細な弱音コントロールは驚異的に緻密さが加わったような印象です。間合いを詰めた拍取りもライブならではの急迫感を強め、優位に自由度の保たれた快演です。

 リストのトッカータがプロピアニストの演奏会で取り上げられるのは稀です。ロマン派の時代に定着した高速の即興的走駆という特性を残しつつ、「新しい世界の扉を少し開けてみましょうか…」というリストの呟きにも似た一瞬の啓示。僅か1分という演奏時間ですが、転落に向かう無調への猪突猛進ぶりに鮮烈なインパクトを残します。続くメフィスト・ポルカでは非常に明快なリズム感とポリフォニックが野心的に強調されていて、1990年の録音より遥かに充実した対比表現を見せます。リストが抱いたイデアの心臓部を射抜くような説得力と開放性に耳を奪われました。メフィスト・ポルカで放心状態となり、正直その後の即興曲聖ドロテアはまともな記憶がありません(失礼…)。技巧的な名作として知られるラヴェルのソナチネはしっぽりとした細やかなアーティキュレーションというよりも、強弱関係に呼応するシンプルな演奏です。3楽章でのラストに至るまでの超安定した指さばきが圧巻でした。

休憩後の ロ短調ソナタは剛健な打ち鳴らしの技術が冴える冒頭のオクターブから快調に飛ばしていました。パンフレットによれば、ラーンキは既に110回以上にわたるロ短調ソナタの演奏をこなしていて、「弾くたびに新しい発見がある」そうですが、その膨大な回数と発見を物語る創意工夫が随所に見られました。特にオスティナートの緩徐、伴奏部に現れるメロディラインの展開方法など、さながらブレンデルの歩んだ軌跡を彷彿とさせます。コーダでもあまり疲れは感じられず、左手オクターブ高速連打の美しい分離に驚かされます。

アンコールは1曲目はリストのピアノ小品S.193。この実演もなかなかレアですが、メフィストポルカ同様、先のリストアルバムに収録されているので、ラーンキはアンコールピースとしてかなり愛奏しているものと思われます。技巧的な実力に裏打ちされた圧倒的な躍動感は凄まじいものがあります。即興的な子守唄風3度和声が自在に駆け巡り、奇想的で軽やかなイメージに多くの人が魅了されたことでしょう。続いてさらりと始まったパルナッスム博士はもともと演奏効果の高い曲ですが、立体感のあるデュナーミクと音列の美しさが際立ちます。ラーンキは還暦前という年齢ですが、バリバリの全盛期なようです。毎年来日してほしいピアニストの一人です。



  André Watts Piano Recital

20090916concert【演奏会名】アンドレ・ワッツ ピアノリサイタル
【日時・場所】2009年09月16日 19:00~・東京オペラシティ
【プログラム】
 1. 巡礼の年第3年4番「エステ荘の噴水」( リスト)
 2. 3つの小品 D.946 1~3番(シューベルト)
 3. ソナタ ロ短調(リスト)
 4. 3つの演奏会用練習曲3番[ため息(リスト)
 5. 楽興の時5、2、3番(シューベルト)
 6. 幻想曲「さすらい人幻想曲」(シューベルト)
(アンコール)
  ・ノクターン7番 Op.27-1(ショパン)
  ・ノクターン「眠れぬ夜~問いと答え」 S.203(リスト)


ワッツは割と頻繁に来日していますが、そろそろ技術的な観点からいえば年齢的にも不安要素が増す頃合だろうということで、積極的に足を運ぶことにしています。今回もプログラム変更がありました。

 ・ウィーンの夜会6番(シューベルト=リスト)
 ・即興曲Op.90-1(シューベルト)
     ↓
 ・エステ荘の噴水(リスト)
 ・3つの小品(シューベルト)

しかし、前回「地獄のワルツ」が削られたようなときほどのショックには及びません。目玉のソナタロ短調とさすらい人幻想曲はさすがに守られました…。

  ワッツの演奏を聞くと、いつもその自由さに感服します。たとえばアグレッシブなプレスや臨界点を超えたオクターブ奏法、デュナーミクを基調とした攻めの姿 勢、独特なリズム感など、これまで培った固定観念を疎ましく感じる結果となります。ただ、前回つくばリサイタルのあとのオペラシティ・リサイタルのときも感じたのが、残響が多いホールは相性が悪いのではないかということです。急速ではなく、かつ音が少なめの曲などは高いレベルで情感の歌いまわしが栄えるの ですが、テンポを急ぐ早いパッセージにおける残響はかなり気になります。ワッツならではの魅力を堪能するためには、少し乾きめの音が出るピアノと、広くないホールという条件が最適かもしれません。

  エステ荘の噴水
の冒頭から音列を浪費する結果になり、一つ一つの音とその重なりに健全な伸びが感じられません。細部が譜面どおりでないのは昔から変わらずですが、大つかみである点、とりわけ間の取り方が不十分な印象です。シューベルトの遺作、3つの小品1番は和音連打や細かいスケールに関しては処理が煮詰まっていない部分が散見されましたが、全体で言えば比較的スタンダードな解釈で、繰り返し部分はカットされた最終版を採用している点もよかったです。2番は中間部のピアニッシモ部分でアクセントがしっかり意識されていていました。3番はシューベルトに軽快さが目立つ主題ですが、躍動感に溢れていて、前回オペラシティで演奏していたダンス(ドビュッシー)の雰囲気が重なりました。弛緩部との対比も明瞭で、作品の全体像がよく浮かび上がっています。ロ短調ソナタは 序盤は大変好調な滑り出しで、ぜひともスタミナと集中力を保って欲しかったのですが、やはり大曲というのは魔物です。殊に最終コーダに関しては惨憺たるも ので、ミスの連発とそのカバーによってメロディラインが消失するほどに響きが混濁しました。より強いボリュームと、より速いテンポでの持ち直しを試みるのは珍しいことではありませんが、ワッツの持ち味である急速的オクターブ連打が乱れ飛んでしまうと相当の混乱をきたします。フーガから主題回帰の前後では これまでに味わったことのないほどに巨大な求心的エネルギーに満ちていただけに、心残りです。

 さて、休憩後の一発目はため息。力演ぶりは若々しい頃から色褪せていません。途中の両手3度和声での下降部は以前から左手を間引いているいるようで、多少の違和感があるのですが、今もあまり気を遣っていないようです。楽興の時ですが、5番はこれまでに聞いたことのないような遅いテンポを取っていて、まるで別の曲のように聞こえましたが、淡々とした強拍による語り口には不思議な説得力がありました。2番3番は特筆すべきことはありませんが、個人的には4番は是非加えてほしいところです。部分的にはリストの作品かと思わせる程に技巧的な要素に彩られたさすらい人幻想曲。少しだけ抑え目のテ ンポを意識しているためか、音の混濁も少なく、響きの面で不足はありません。安定した跳躍、めまいを起こしそうなオクターブの連続とポリフォニックな主旋律の動きなど、円熟期にふさわしい習熟ぶりです。若い頃の録音では後半のアルペジオがいかにも手につかない感じでしたが、きちっと解決されていました。

  アンコール1曲目はショパンのノクターン7番でした。リストだけでなく、ショパンにも定評のあるワッツですが、充実したアゴーギクにより充実した詩情が発揮されます。超絶的なスタイルで右往左往する低奏部の迫力と手裁きも圧巻です。今回のリサイタルで最も心に残った演奏でした。2曲目のノクターン「眠れぬ夜」はワッツ愛奏の作品で、オスティナートの強調や後光が差すようなデュア展開部には並々ならぬ愛を感じます。

 今回も存分にペダルの踏み鳴らしや歌声が聞かれました。ただ、グールドの代役として掴んだピアニストのキャリアという点で妙に合点してしまう共通項は、 型破りな奏法や歌声を出すという点だけではなく、通常よりも若干左手の音量にバランスが傾いているということです。ここぞという強奏部分では必ずと言って いいほど左手が伴奏以上の役割を果たしてます。こうしたことはCDではあまり感じません。改めて録音とライブは別物だなと感じます。

 プログラム冊子でのワッツへのインタビューでは、前回の来日時にべリオの作品などを取り上げてたことなどに対して理由を尋ねているのですが、本人は「なぜその曲を選ぶかということに対し、説明できるような理由はない。あえていえば楽しく練習できる作品が好き」というようなことを語っています。どんな曲を 「楽しく」練習してきたのか、まだまだ保守にまわらず、レパートリーを積極的に披露して欲しいものです。



  Masataka Takada Piano Recital

20090306concert【演奏会名】高田匡隆 ピアノリサイタル
【日時・場所】2009年03月06日 19:00~・紀尾井ホール(東京)
【プログラム】
 1. ソナタ K.9(スカルラッティ)
 2. ソナタ K.141(スカルラッティ)
 3. ソナタ13番(シューベルト)
 4. 舞踏組曲 Sz.77(バルトーク)
 5. 超絶技巧練習曲1番(リスト)
 6. 超絶技巧練習曲11番「夕べの調べ」(リスト)
 7. 超絶技巧練習曲12番「雪嵐」(リスト)
 8. 超絶技巧練習曲9番「回想」(リスト)
 9. 超絶技巧練習曲5番「鬼火」(リスト)
 10. 超絶技巧練習曲4番「マゼッパ」(リスト)
 (アンコール)
  ・ハンガリー狂詩曲6番(リスト)


1999年日本音楽コンクール1位、2004年仙台国際音楽コンクール2位、2006年ワイマール・リストコンクール2位、2008年モントリオールコンクール2位など、数々のコンクール受賞歴を誇る高田匡隆氏。今回のリサイタルはスカルラッティ、シューベルト、バルトーク、リストという変わった組み合わせで、特にバルトークの舞踏組曲というのは注目すべき選曲と言えます。

 スカルラッティのソナタK.9は始めの数小節だけで驚くべき音色の変化を見せます。ダイナミックレンジも豊かです。当然チェンバロ用の作品なのですが、色彩感のあるフレージングと躍動的な音粒はピアノで表現されてしかるべき説得力があり、古典作品とは思えない新鮮さがあります。続いてK.141。ソナタK.9は巨匠たちによって愛奏されてきましたが、こちらはあまり選ばれません。有名どころはアルゲリッチの録音(コンセルトヘボウ・ライヴ)くらいでしょうか。連打の練習曲かと思われるくらいに長めの同音連打の旋律で構成されるトッカータ風の作品です。K.9に引き続きリリカルな解釈で、メカニックにも安定感があります。シューベルトのソナタ13番もじっくりとしたロマン派の詩情をにじませます。一般的に弾かれるよりひと回り小さい音量と遅いテンポで始まる1楽章でしたが、オクターブ音階など音の幅が広がる部分では自由に浮遊するような身軽さもあります。部分的にアゴーギクが過剰な感じがしますが、個性的な美感を持っています。メロディーラインを強調するタイプではないようなので、2楽章はやや存在感に欠けましたが、3楽章は端麗なスケールを披露します。場面の切り替えは、スッパリ切るというよりもやや余韻を残しつつ、ということが多いのですが、それでいて音の濁りがなく、まとまりを失わなうこともないというのも驚きです。
 
 さて、バルトークの舞踏組曲はシューベルトの雰囲気が一転。第1舞曲の冒頭からおどろおどろしい豪快なバス音をかましてきます。普通に弾けば単なる現代音楽ですが、打楽器的で特異なリズムと諧謔的な民族的和声を見事に調和させてきます。ひっかき、回転させ、幾重にも重ね、俊敏に跳躍させるその手さばきは、やはり実演でのみ味わえる楽しみ。また、ある一定以上の力がこもったピアノ演奏は、管弦楽のオリジナル版よりも演奏効果があるように思います。

 15分間の休憩後はリストの超絶技巧練習曲です。プレリュードは始まりを緩めに、後半は飛ばして、というヴィルトオーゾ的な解釈。わき目も振らずに駆け上がるテンポアップの上手さが際立っています。夕べの調べは駆け足に進みます。アルペジオもサラサラと流し、あっと言う間にコーダです。鳥肌もののダブルオクターブ、圧巻のコーダは足元から頭の先まで鳴り響きます。雪嵐回想ともに、常に波の抑揚が途切れない感じが気になります。特に左手はいま少し直線的な表現が望まれました。しかし驚いたのはここからです。鬼火によって、一気にホールの響き全てが霊的な力に支配されているような別世界が広がりました。磨きぬかれた音の絞り、かつ、テンポも第一級です。テンポを急ぐと大抵は流し弾きに頼らざるを得ないのですが、あくまで重音の交錯とメロディーラインの共鳴を優先しながら、クリアな音列を実現しています。超得意といった印象です。マゼッパはピークを過ぎたのか、やや疲れが見えましたが、これも閃光が走るような電撃的なオクターブ奏法にのけぞってしまいます。一掴みにする和声感が卓越しており、その鍵盤支配力たるや過去の偉大な巨匠に一歩もひけをとりません。絶対的な巨大音量で鳴らしきる技術にも長けています。

 アンコールはハンガリー狂詩曲6番でした。ラッサンはしっかりと溜めが聞いていて気品に溢れています。フリスカはしんどいオクターブ進行ですが、やはりそれこそが強みと言わんばかりの高速移動。どんな難曲もたちどころに料理してしまいます。思わず力み過ぎてしまったり、フレーズを行き過ぎてしまったりと、ミスタッチも含めて大小の瑕はもちろんありましたが、そうしたパッションの副産物も圧倒的なヴィルトオジティの要件です。技巧は全て芸術のためにあらんとする態度は、何ものも優良な要素に変えてしまいます。日本人離れした…と言えば、他の国内アーティストに失礼かもしれませんが、高田氏のように確かな技術の上に実現する"覚悟の決まったパフォーマンス"は、格別の印象と感動を残します。演奏中に覗かせる楽しそうな表情、上機嫌なしぐさも実に心地よいもので、多くの同業者(ピアニスト)にも見てほしいという思いにかられました。



  Yoshihiro Ota Piano Concert

20081129concert【演奏会名】大田佳弘 ピアノコンサート
      ~「サロン・ド・ソネット」代表:齋藤京子による解説を交えて
【日時・場所】2008年11月29日 15:00~・東京国立博物館 平成館ラウンジ
【プログラム】
 1. ノクターン8番(ショパン)
 2. バラード1番(ショパン)
 3. 超絶技巧練習曲11番「夕べの調べ」(リスト)
 4. 練習曲「鉄道」Op.27(アルカン)
 5. 独奏ピアノのための交響曲(短調による12の練習曲Op.39 4-7(アルカン)
 (アンコール)
  ・練習曲13番(練習曲Op.10-6に基づく)(ショパン=ゴドフスキ
  ・即興曲13番(プーランク)


 主催の「サロン・ド・ソネット」は齋藤京子氏によって「一流の演奏家を少数で聴く」をモットーとして設立された会です。今回はTVドラマ・ アニメ"のだめカンタービレ」の演奏指導、ピアノ音源を多数担当する、注目の俊英!!…"とのキャッチコピーで、大田佳弘氏のコンサートが企画されましたが、観客は意外に年配の層が分厚かったように思います。

 場所は東京国立博物館の平成館ラウンジ。開場を待つ列に並んでいると、壁が薄いためかリハーサルの練習がかなりの音量で聞こえてきましたが、開場して「なるほど」。まさに会場はサロンのような小スペースで、間仕切りは一枚のシャッターだけでした。今回のコンサートにおけるキーポイントは、芸大首席卒の実力者がショパン、リストに加え、アルカンという3人を基調としたプログラムを組んだということでしょう。

 鍵盤にささやくようにして始まったショパンのノクターン8番は一つ一つの音の統制感が絶妙です。フォルテの音には制限が感じられましたが、ピアニッシモ<ピアノのレンジに広がりがあって、響きのバランスが安定しています。バラード1番は序奏部の数小節で卓越した強弱を聴かせます。また、余計な間合いのない快走の中にも、メカニカルな部分は割と固い運指で走らせており、奏法の切り替えが印象的です。スケルツァンド付近の中間部ではディティールの誇張もあり、質的な多様性確保への意欲が見てとれました。リストの夕べの調べは序盤から中盤にかけて風変わりなテンポチェンジが続き、和声的な膨らみが十分ではありません。オクターブの跳躍など極めて滑らかではあるものの、せっかくのアルペジオの残響効果が最大限引き出しきれていないような印象を持ちました。

 さて、鉄道はイソップの饗宴とならび、以前からアルカンの「象徴的な」代表作とされています。残念ながらプロの録音に恵まれていませんので、MIDI音楽にお世話になった人も多いでしょう。以前にアマチュアの実演を聞いたこともありますが、やはり2分音符112という高速テンポ指定についていけず、スカスカと音列が流れてしまう結果になることが多いようです。私自身も挑戦する意欲が全く起こらない作品です。今回の奏者のライヴは期待を大幅に上回る快演でした。分散和音による中間部の不可解なテンポアップの意味はわかりませんでしたが、余裕がなくなるギリギリの領域でせめぎ合う反復音型と、早い走駆のあとに沈み込む蒸気音や、高らかな警笛の音など写実的な描写も無理なく調和しています。必要なテンポと充実した音楽的内容を両立していました。

 ソロのための交響曲はアムランの録音に肉薄する熱演です。低音で構築されるテクストが曖昧になる部分が散見されますが、理想的に鍵盤に吸い付く高速オクターブ奏法が猛然と迫ってきます。Op.39-4の終盤で執拗に畳み掛ける巨大な下降スケールはもとより、Op.39-7に至ってはすでに半狂乱メカニックの祭典ですが、奏者は難なく跳躍をこなし、驚くべき息の長さを見せます。また、あくまでノーブルに仕上げているのは驚きです。この作品のように同型反復、画一的なリズムで刻まれる理想主義的な楽譜はリリシズムを発揮する余地が極端に少ないのですが、さすがに一流の演奏は余計なものを必要としません。

 客席より花束が手渡されたあとのアンコール1曲目は、ショパン=ゴドフスキの練習曲13番(左手のための)でした。演奏効果が芳しくないショパン練習曲編曲の中でも、内容と難易度がよく釣り合っている良編曲の一つです。齋藤氏は、この作品が左手のだけで弾くという点を、鍵盤が見えない右側の人たちもよくわかるように、「今いただいた花束を右手で持っていなさい」と指示しました。面白い演出です。演奏は理想的なピアニッシモで支配されており、右手の代替ラインも綺麗に浮かび上がっています。疲れからか、後半は左手の細かい音粒が鳴りきらないようでしたが、奏者の繊細な音感やデュナーミクへの嗜みを存分に感じさせるものです。2曲目はプーランクの即興曲13番。こちらはメランコリーな転調で独特の雰囲気が漂わせる作品です。ここでもやはり微細な音に対する感性が冴え渡っています。

アルカンのみならず、演奏困難度の高い色々な作品に果敢に挑戦していけるピアニストとして、今後どんどんと活躍の場を広げていくのでしょう。ライヴに併せ、積極的なレコーディング活動にも期待します。


※「サロン・ド・ソネット」の齋藤京子さんの司会は、作品紹介だけでなく、飼い犬のように奏者をからかってみたり、奏者の裏話を暴露しつつ、同時にフォローするなど、ユーモアのあるコメントに溢れていました。



  Franz Liszt

20080203concert【演奏会名】フランツ・リスト ヴァレリア・セルヴァンスキー&ロナルド・カヴァイエ
【日時・場所】2008年02月03日 14:00~・トッパンホール(東京)
【プログラム】
 1. 序奏とアレグロ(ラヴェル)
 2. スポーツと気晴らし(サティ)
  ~食欲をそそらないコラール、ブランコ、狩、コメディア・デラルテ、
  花嫁の目覚め、目隠し鬼、魚釣り、ヨット、海水浴、カーニバル、ゴルフ、
  タコ、競馬、陣取り遊び、ピクニック、ウォーター・シュート、タンゴ、そり、
  いちゃつき、花火、テニス
  演奏:セルヴァンスキー、朗読:カヴァイエ 訳: 姥沢愛水、カヴァイエ
 3. ウィンスボロ綿工場のブルース(ジェフスキー)
 4. ソナタ ロ短調(リスト=サン・サーンス)
 (アンコール)
  ・カンタータ BWV.614 バッハ


 リストのロ短調ソナタの2台版編曲についてはここ数年の関心ごとでしたが、1年くらい前に楽譜が手に入り、残念ながら一見して「つまらない編曲だなぁ」という心象を持ちました。単純にパートを二人にわけ、チラホラと主音の増強が図られているだけで、サンサーンスには申し訳ないけれども「これは素人技か?」と感じたのをよく覚えています。押しも引かれぬ名曲であるロ短調ソナタがなぜ2台版にされる必要があったのか。2台版で新しい境地が開けるのか。今回は実演を聴けるということで、一縷の望みを持って行ってみました。

 大変珍しいコンサートプログラムにもかかわらず、会場に空席はあまり見られませんでした。今回の演奏会の名前が「Franz Liszt」。プログラムはトリにソナタが入っており、パンフレット、チケット全てがリスト一色です。演奏会の目玉がソナタであることはわかりますが、それでもプログラムのバランスから考えれば過大にリストが前面に押し出されています。当日受け取った曲目解説などの冊子も、中身はロ短調ソナタについて大半を割いていて、しかも演奏者(カヴァイエ)自作の仮想対談という徹底したつくりです。仮想対談の内容は以下のような流れ。

「なぜソナタを編曲する必要があるのか?→リストは自分自身で2台版に編曲する計画をしていたみたいだ。→なぜ自分でしなかったのか?→単に本人に時間がなくて、代わりにサンサーンスが成し遂げたのでは→演奏は容易になっているのか?→いや違う。別物と考えるのが正しい。まあ良いから聞いてみろ。」

まさにあの完全無欠のロ短調ソナタに手を加えるということに関する内在コンプレックスを如実に示すような内容です。ただ、その中でも随所に自身の演奏能力への自信を漲らせています。

 さて、演奏についてですが、結論から言ってやはりその価値がはっきりしない、中途半端な代物です。編曲の存在を知ったときの印象や、楽譜を見たときの印象を少しも裏切ることなく、悶々とした30分になってしまいました。旋律が減衰のない音の持続となって、サン・サーンスならではのオルガンの響きを彷彿とさせる部分が多少耳を引きますが、全体としては原曲が含む器用なフレージングのリスクが節操なく解決されてしまっています。どうせならば、大幅にダイナミズムをきかせるような思い切った対位的増音の手法が取れたであろうに、一台での効果に対する特別な優位は一切感じません。サン・サーンスにはショパンのソナタ2番の2台版編曲もあるのですが、いずれにしても既に1台で十分な味わいを持って愛奏されている作品をなぜ2台に編曲をする気になったのか、ますます理解できずといったところです。

 また、奏者の調子もいまひとつでした。ラヴェルの序奏とアレグロや、写実的でユニークな反復音が面白いウィンスボロ綿工場のブルースではコンビネーションが冴えていましたがスポーツと気晴らしでのピアノパートは凡ミスを連発。ロ短調ソナタはプリモの練習不足、(あるいは力量不足)が露呈されました。いずれにしても、プログラムの中で2台版リストソナタが最もつまらなく、冗長な作品に感じられる結果になったような気がして残念です。



  Aya Nagatomi Piano Recital

20070625concert【演奏会名】長富彩 ピアノリサイタル
【日時・場所】2007年06月25日 19:00~・ルーテル市ヶ谷 音楽ホール(東京)
【プログラム】
 1. ソナタ K.310(モーツァルト)
 2. 水の戯れ(ラヴェル)
 3. ヴォカリーズ( ラフマニノフ=ワイルド)
 4. ハンガリー狂詩曲2番(リスト)
 5. パガニーニ大練習曲3番「ラ・カンパネラ」(リスト)
 6. アンダンテスピアナートと華麗なる大ポロネーズ(ショパン)
 7. ソナタ ロ短調(リスト)
 (アンコール)
  ・練習曲 Op.10-4(ショパン)
  ・子供の情景 Op.15-7 トロイメライ(シューマン)


6月25日はケマル・ゲキチのリサイタルへ行く予定だったのですが、当日になってプログラムをゴッソリ入れ替える荒業。ポゴレリチ、ワッツと、自分が気になるリサイタルは曲目変更が多いのですが、まさに「ゲキチよ、おまえもか…」と嘆息が漏れます。相次ぐピアニストの曲目変更は、フランツ・リストの巨人ぶりを黙示していますが…個人的に、何かしらのコンディションが整わないことを理由にして当初予定していた曲目を変更するのは職業人がして良いこととは思いません。そういうイレギュラーを褒めちぎるディレッタントもいますが、それなら最初から「曲目未定」にすべき、というのが持論です。本当に自分のブランドだけで勝負しているのならば、それでなんらの問題もないはずです。と言えども、調子の良し悪し、主催者側の裁量など、色々と兼ね合いがあるのでしょう…云々かんぬん。

 
 愚痴はともかく、ゲキチを見限った同日、急遽国内の若手のリサイタルに行ってみました。CD、DVD発売記念、ハンガリー国立リスト音楽院に在籍中の長富彩。経歴を見ると、小菅優やアリス・紗良オットと同じく日本での活動よりも海外での活動や評価が気になります。そして、なんといってもボリューム感のある意欲的なプログラムに注目です。

 出鼻はモーツァルトのソナタ。外見のあどけない感じとは裏腹に、スレンチェンスカやブレハッチのようなマッスルタイプです。一音一音がゴリゴリひしめき合うような、文字通り「指筋」由来のフォルティッシモがやや無骨に感じられますが、それをカバーするような急速に縮むピアニッシモは聴き応えがあります。水の戯れはモーツァルトで見せた美しいピアニッシモの全貌が顕になりました。ただし、ゆったりしたテンポ設定で、かつ全体的にペダルも薄いので、少しばかり質素に聴こえます。ヴォカリーズは若干のくどさを滲ませます。マクロのダイナミックスは十分あるのですが、分厚い音系に対応するミクロの脱力箇所がありません。ワイルドといえば硬派でありながら寄り道するような注釈がたくさんついた遊び心全開の音楽が魅力なのですが、彼がどのような音を愛でて編曲していたのかという原点を意識してもらった方がいいかもしれません。ハンガリー狂詩曲2番も随分と勿体がついて重鈍です。フリスカ部分だけで音楽が完結してしまう勢い。また、ラッサンとの対比があまり感じられなかったのが気になりました。テンポを抑制したままなのであれば、フォルティシモ音域でタッチのバラエティを増やすなどの工夫があると良さそうです。カンパネラは細やかなパッセージの処理が安定しています。曲の解釈も前半のプログラムで最も自然なものに映りました。

 
 休憩をはさんでアンダンテスピアナートと華麗なる大ポロネーズ。アンダンテスピアナート部分はやはり低速設定でしたが、ポロネーズは繰り返し毎に徐々に息を吹き返すような微妙なコントラストがあります。というよりも、いつも無理にテンポを落としているのでしょうか(?)また、モーツァルトでも感じましたが、装飾トリルの上手さが殊更目立ちます。ロ短調ソナタは曲が曲だけに奏者の適性を期待したのですが、各フレーズの自己主張が強く、まるで脇役のいない演劇を見るような疲労感があります。また、せっかく持続的な集中力があっても、不用意な譜読みミスでくじかれてしまったり、どことなく未完成な雰囲気を隠せません。アンコール一曲目はショパンの練習曲Op.10-4です。安定した跳躍とさざ波のように畳み掛ける流麗なアーティキュレーション。本日の重々しい流れに爽やかなアクセントが付きました。2曲目はトロイメライで、再びプログラムの演奏内容を集約したようなドッシリとした解釈でした。


 癖の強い指導者に薫陶を受けているのか。今日は特別だったのか。重いピアノに合わせたのか。いずれにしても、youtubeにあがっている奏者の動画(カンパネラ)を見る限り、コンサート外ではもっと自由に弾いている雰囲気が感じられます。「練習に練習を重ねました」という精神論を背負ったような、重く、抑制の効きすぎたさばき方は、編曲ものやアクロバティックな技巧を多用している作品にとってハイリスクです。ハイフィンガー法に代表される「全ての音をシッカリ鳴らす」という金科玉条を揮うのではなく、むしろ表現の上での作為性を軽減する方向で取り組んでほしいように感じます。日本人のクラシックピアノ演奏に「窮屈さ」が付きまとう現状はここ何十年と受け継がれてきていますが、海外組としてこれから何を吸収して成長していくのか注目です。



  André Watts Piano Recital

20070603concert【演奏会名】アンドレ・ワッツ ピアノリサイタル
【日時・場所】2007年6月3日 15:00~・ノバホール(茨城)
【プログラム】
 1. コラール前奏曲「主イエス・キリスト、我汝を呼ぶ」BWV639(バッハ=ワッツ)
 2. コラール前奏曲「汝にこそ喜びあり」BWV615(バッハ=ブゾーニ)
 3. ロンド K.485(モーツァルト)
 4. ロンド K.511(モーツァルト)
 5. ソナタ7番(ベートーヴェン)
 6. 水のクラヴィーア(ベリオ)
 7. 前奏曲第1集 沈める寺(ドビュッシー)
 8. 暗い雲(リスト)
 9. 巡礼の年第3年4番 エステ荘の噴水(リスト)
 10. 練習曲 Op.25-7(ショパン)
 11. 練習曲 Op.10-9(ショパン)
 12. バラード1番(ショパン)
 (アンコール)
  ・バガテル10番(チェレプニン)
  ・ペレ・ナルボンヌ夫人の回転木馬 S.214a (リスト)


 この日の一週間後にあたる6月10日のオペラシティでのリサイタルのプログラムには「地獄のワルツ」(「悪魔のロベール」の回想より)と「エステ荘の噴水」が入っていたので喜び勇んでチケットをとったのですが、2ヶ月ほど前に見事に曲目変更になり、意気消沈していました。しかし、なぜか他地区でのリサイタルでは「エステ荘の噴水」は残ったまま。あきらめ切れず、この曲だけを追加で聞くつもりで3日のつくばにも行ってしまいました。

 このサイトでワッツを褒めちぎっている身としては、言うにしのびないのですが、ワッツのシューベルトやベートーヴェンについては特に感動したことがなく、そういう意味で前半のプログラムは全く興味のわかないものでした。(ピアニストがあらゆるジャンルを得意とし、どんな曲でも弾きこなせる、あるいは弾きこなせなくてはいけないと考えるのは「コンクール病」のように思います)。また、現在60歳でデビュー50周年なので、20年前ごろの全盛期の録音からは聞きおとりするだろうと覚悟していました。
 
 ワッツ登場。やたら重そうな上半身に非情な月日を感じます。はじめはバッハ=ワッツとバッハ=ブゾーニ。あまりにあっけない始まりで幕をあけ、伸縮自在なノリでこざっぱり。この手の曲目に感じる共鳴的な信心深さとは無縁ですが、重音の掴み方に確かな含みがあります。昔と変わらず奔放な指の動きでありながら、音は一層安定しています。驚いたのは次のモーツァルトソナタトK.485の演奏です。まるで古典の音楽とは思えないほどに濃淡がくっきり。不明瞭なフレーズも散見されますが、こんなモーツァルトならずっと聞いていたい!と、そんな気持ちにさせる煌びやかな音列です。ベートーヴェンのソナタ7番はパフォーマーとしての本領発揮!ワッツの手にかかると一気に開花し、躍動を得ます。あの楽譜にこれほどまでに表情がつくものか…と関心しっ放し…。やや中だるみはありましたが、手堅く輪郭を整えた4楽章できっちりとしめていました。当初の思いとは裏腹に、プログラム前半を聞いて、すっかり満足してしまいました。

 さて後半。ベリオは現代音楽家に分類される作曲家。水のクラヴィーアは未聴でしたが、和声は聞き心地よく、特にドビュッシーのような印象主義的な作品好き向けの逸品です。暗い雲は単純に聞くよりも、演奏する身体を見るほうが格段に面白いようです。お目当てのエステ荘の噴水は序盤から飛ばします。トリルなど細かい音型は以前と変わらず敏捷さが冴えるのですが、なんとなく全体的に響きが濁ります。また、多少弾きにくい部分はいき急ぐ感じがあって、落ち着きません。案の定弾き飛ばしもあって、様子がおかしいのです。何が原因かわかりませんが、オペラシティでこの曲を封印した理由を知ったような気がしました。しかし、その後に続くショパンは絶好調。練習曲は2曲とも詩情に溢れ、作品のうまみが際立ちます。高速パッセージの揺らぎは誰のそれとも似つかないものです。トリのバラード1番はワッツ独特の慎ましさと華やかさが同居した息遣いが少しずつ活きており、中間部から後半にかけた盛り上がりは特に味わい深いものでした。悲嘆を暖かいオーラが包み込むような世界観です。
 アンコールは渋りつつも2曲。完全に未聴のチェレプニンのバガテルは豪快なスケールがウリのヴィルトオーゾピース。これはかなりの熱演で、即刻楽譜が欲しくなります。2曲目はまさかまさかのペレ・ナルボンヌ夫人の回転木馬。ワッツの演奏を聞けるとは!ハワードと違い、演奏はローテンポだったのが印象的です。いずれにしても、メカニックの精度ではない部分で、ワッツの実力がいかに優れているかを知る結果となりました。雄弁な音楽はまだまだ健在です。

 



  Mûza Rubackyté Piano Recital

20060924concert【演奏会名】ムーザ・ルバッキテ ピアノリサイタル
【日時・場所】2006年9月24日 18:30~・日本大学カザルスホール(東京)
【プログラム】
 1. 幻想曲 K.475(モーツァルト)
 2. ソナタ23番「熱情」(ベートーヴェン)
 3. アラベスク Op.18(シューマン)
 4. 謝肉祭 Op.9(シューマン)
 5. 巡礼の年第2年補遺3番 タランテラ(リスト)
 (アンコール)
  ・12の歌曲4番 魔王 S.558-4(シューベルト=リスト)
  ・練習曲 Op.10-12 「革命」(ショパン)
  ・チェンバロ協奏曲5番 BWV.1056 2楽章 ラルゴ(バッハ=ルバッキテ)


 ルバッキテのリサイタルを知ったのは、会社の昼休憩時にネットサーフィンをしていた時でした。ふと「ムーザ・ラベッカ(ルバツキテ)・リサイタル」という文字が目に飛び込んで来たので、思わず「おぉ!」。個人的に好みのアーティストではありますが、よくもまあこんな知られざるピアニストがカザルスに!この感激たるや。
 全席自由にも拘わらず会場15分前までは列が出来ない状態でしたが、開演時にはそれなりに入っていたようです。聴衆は一般的な音楽愛好者というよりも、主催であるカワイ関係の方とその生徒さんが目だっていたのではないでしょうか。いずれにせよルバッキテのようなピアニストを招致する企画者には大感謝です。

 さて、プログラムですが、まずはモーツァルトの幻想曲K..475。緊張感ある滑り出しです。PPPに感じられる非常に微小な音と、孤高の息遣いが聴き手の集中力を研ぎ澄まします。もともと転調が多い曲なのですが、そういう意味では統一感が出ていたのではないでしょうか。ただ、上半身をかがめ、オーバー気味の腕の振り上げ、鍵盤を引っかくような打鍵はかなり特徴的で、視覚的な安定感はあまりありません。実際、3連符の処理や、全体に渡っての拍感にも多少のザラつきがあり、古典が本職というわけではなさそうです。
 ベートーヴェンの熱情ソナタは1楽章、2楽章ともハイペースで、曲が持つ生来的な推進力が力強く働いていました。ただ、カザルスホールの音響は基本的に弦向きで、ピアノの細かい粒立ちを潰してしまう面が少なからずあります。その点、特に3楽章はルバッキテの強みが生かされておらず、超絶的な指さばきも不明瞭な音響の犠牲となります。ただ、それでも右手の高速パッセージで適宜アクセントを入れるような工夫や、オクターブによる堂々としたフォルムの顕示は目立っていて、決して演奏効果が失われないない点が見事です。音だけ聞いていると、底知れぬエネルギーをぶつけてくる大味のグルダに似たイメージです。
 休憩を挟んだのち、奏者が座るより前にシューマンのアラベスクが始まりました。木漏れ日を感じさせるようなほのかに暖かい主題に対し、中間部分とのコントラストがよく出ています。主題部そのものはサラサラとした一本調子で、やや淡白だったかもしれませんが、中間部の叙情性豊かなシンコペーションが色彩的な主張を持っており、全体としての調和がありました。

 シューマンの謝肉祭は、「前口上」から多少の和音ミスをするも、オクターブ跳躍と高速連打、快活な歌い口が抜群の演奏効果を捻り出します。「パピヨン」や「めぐり会い」、「パンタロンとコロンビーヌ」は余裕のある腕の使い方だけでも見ごたえあり!左手の低音部はたまに音が抜け落ち、重量感に欠けますが、レガートとノンレガートの対比、それに伴うフレーズの変則的な処理は見事です。また、ピアニッシモの高音部はスタインウェイ独特の美しさが俄然目立ちます。最後の「ペリシテ人と戦うダヴィッド同盟の行進」は特に歓喜に満ちていて、本プログラムでは最も奏者の自由な感性が示された名演でした。

 ルバッキテに明確な欠点があるとすれば、やはり作品への強烈な想いが露骨に表出してしまうところでしょうか(笑)リストのタランテラは情熱がほとばしるようなギリギリの爆演。この曲だけをきけば、多くの人がアンコールピースと勘違いするだろうというような、まるでS.バレルのノリでした。おかげで冒頭のパッセージに関しては和声のほとんどがボヤけていましたが、ほぼテンポを落とさずに突入した中間のカンツォーネの難所は、どうやって処理をしたのか追想できないほどの鮮やかな指さばきです。ミスタッチは少なくありませんでしたが、高い基礎技術のなせる芸当の数々に息を飲んだ聴衆も多かったことでしょう。生粋のリスト弾きといった具合です。
 アンコールはショパンの何かかな、と想像していましたが、終わってみれば3曲でした。まずはタランテラの勢いを借りたシューベルト=リストの魔王。ルバッキテお気に入りの一曲です。これまでにも増して俊敏な高速オクターブ連打が冴え渡っていました。程よくケレン味があり、絶望的な感覚、おどろおどろしさが感じられる点も好感が持てます。2曲目はショパンの革命。左手は無造作気味でしたが、右手オクターブラインの活舌がよく、久々に女性による男らしい革命を聞いた気がします。(ショパンやスクリャービンのポロネーズなども聞きたくなります。)3曲目はバッハ=ルバッキテのチェンバロ協奏曲5番のラルゴです。カツァリスも自作編曲し、TELDECの「アンコール集」に入れていましたが、カツァリス編よりも若干音が多かったように感じました。

 さて、演奏が少しずつテンポアップするきらいがあるのですが、特にフレージングが浮足だっているような特徴が少々残念です。ホロヴィッツのように、一見それがそれだとわからない程度であれば、抜群の効果を引き出します。殊にモーツァルト、バッハの楽曲に関しては、居心地が悪い箇所がいくつかありました。しかし、プログラムの後半になって衰えない男性顔負けの馬力、強靭なメカニック、歌心に裏づけされた開放的な雰囲気は紛れもなくヴィルトオーゾ・ピアニストとしての立場を主張しています。ルバッキテのプロフィールにある「リストのエチュード完全版製作のため録音継続中」という文字に大きな期待をしています。

 



  Alexandre Dossin Piano Recital

20050524concert【演奏会名】アレクサンダー・ドーシン ピアノリサイタル
【日時・場所】2005年5月24日 19:00~・川口リリア(埼玉)
【プログラム】
 1. 巡礼の年第2年7番 ソナタ風幻想曲 ダンテを読んで(リスト)
 2. 「シモン・ボッカネグラ」の回想(ヴェルディ=リスト)
 3. 「リゴレット」のパラフレーズ(ヴェルディ=リスト)
 4. 「エルナーニ」のパラフレーズ(ヴェルディ=リスト)
 5. 巡礼の年第2年2番 物思いに沈む人(リスト)
 6. 「アイーダ」より神前の踊りと終幕の二重唱(ヴェルディ=リスト)
 7. パガニーニ大練習曲3番「ラ・カンパネラ」(リスト)
 (アンコール)
  ・コンソレーション3番(リスト)


 2001年の第2回マルタ・アルゲリッチ国際ピアノコンクール優勝者、アレクサンダー・ドーシンのリサイタルが行われました。
「アルゲリッチ推薦若手演奏家コンサート」と銘打たれていましたが、実際ステージに出てきたのは貫禄ある青年。それもそのはず、この20年間で15ヶ国を回ったという演奏活動実績が既にあるようです。ちなみに1970年、ブラジルの南東端にあるポルト・アレグレ生まれです。(詳しくはHPへ→http://www.dossin.net/index.htm)
ダンテソナタから始まって続けざまにオペラ編曲ものが並ぶあたり、プログラムをみると、相当の熟達ぶりを予感させます。しかしオペラはなぜか全てヴェルディもの。もしかするとヴェルディファンなのでしょうか?

 さて、一曲目のダンテを読んで。始めから終わりまで一本の筋が通っており、あまりためのないサクサクと推進が心地よいです。特にオールリストで組むようなアーティストは余計な力が入ってないことで共通します。見せ場が多いことによる重量感のリスクをよく理解している証明でもあるでしょう。また、オクターブは跳躍、連打を含めて安定感が抜群で、正確性、俊敏性共に絶対の自信を持っている様子。そのため打点が高くとも腕の使い方に余裕が出てくるので、見た目にも安定しています。やや音量は抑え気味なものの、全体的な音楽的構成も優れたものでした。続く「シモン・ボッカネグラ」の回想はリゴレットの次によく弾かれるヴェルディ編曲もの。作品は晩年にあたる1882年に作曲され、「死のチャルダッシュ」を思わせる旋律が混じるあたり、調性の薄くなりかける頃の作品が好きな人には好まれると思うのですが、まさに左手オクターブ連打は寸分のくるいもない完璧な出来です。弱音に関しては一転してナーバスなまでに良質な響きを追求し、場面毎にしっかりと緩急がついています。「リゴレット」のパラフレーズは全体的に早いペースを保っていましたが、右手4連打部分で安全運転になるのが残念。早いパッセージにおいても粒揃いにはかなり注意している様子が伺え、いわゆる「努力家」であることを印象付けます。アルゲリッチのような演奏家がかくも堅実なピアニストを評価するものかという驚きは隠せません。

 休憩を挟んでの「エルナーニ」のパラフーズは単純な和声に対する挑戦的演奏。演奏レベルが上がるほど楽譜が雄弁に語り始めます。リストの自作自演において”駄作”なるものの存在はあり得なかったのであろうという想像が真実味を帯びます。そして物思いに沈む人。ヴェルディ編曲作品の間に巡礼の年第2年で最も目立たないこの曲を単体で挟むことによる効果はよくわかりません。しかし陰鬱な音の反復における残響と余韻の中でしたたかにダイナミックが意識され、奏者の入れこみようが伝わる名演でした。続いて「アイーダ」より神前の踊りと終幕の二重唱ですが、相変らずマイナー路線でありながら明らかにホールの雰囲気が変わったのは予想通り。まるでイリュージョンが見えてくるような神々しく斬新な和声と特徴あるリズムが断続的に耳を引きます。柔らかすぎて触れることの出来ないカーテンのように妖しい美しさに思わず息を飲む楽曲ですが、なんと無念なことに、「終幕の二重唱」に入る前でフライング拍手が乱入してしまいます。一応の和声的終結はみるものの、音楽的に途切れているとは到底思えないタイミングに拍手とは…、、落胆というよりもむしろその唐突さに驚きました。しかしドーシンの集中力は途切れません。トリルはホールの残響で幻想的な広がりを見せ、特に最後の主旋律前の両手和音交差トリルで消え入る場面ではビブラートのような効果が信じ難いほど綺麗に決まっていました(初めての経験です)。ホールの音響マジックはあるにせよ、狙いすまされた至芸を見せられるとさすがにCDでは満足できなくなります(ハワードの演奏に限っては唯一CDで効果を確認できます。6巻トラック3、7:55~)。これからもドーシンには永続レパートリーとして是非弾き続けて欲しい作品です。そしてトリはラ・カンパネラ。これはリゴレットパラフレーズ同様に堅実志向が表出し、特に技巧的な部分で生真面目な雰囲気が前面に出ていました。いかにも練習曲の淡々とした拍刻みが優先し、抑揚が少なめです。多少の疲れからかミスタッチも散見され、なにより奏者自身から曲に対する愛情が感じられず、単なるサービス曲目であることが鮮明でした。アンコールはコンソレーション3番。じっくりと熟成させた高音の響きに名曲としての歴史を感じるものでした。

 総合的に見てとても「若手」の範疇は認めきれない熟達ぶり。身振りの大きい曲での実力発揮と開拓精神の強さはこれからも広く世界に認められていくでしょう。あくまで「スタンダード」な範疇を出ないながらも、単なる二番煎じには陥らない独創性も垣間見えました。ただ、始終気になったのはペダルの多さです。音が多い音楽ほど、そしてホールの響きが良いほどにペダルは薄くするよう努力しなければ際限なくキレがなくなってしまいます。どの曲で見てもペダルの踏み換えが曖昧といわざるを得ません。歯切れの良さ、素早い離脱、その他打鍵の粒一つずつが確認できるような音楽=「マルカートの快楽」はもはや現代の「優れた」ホールでは再現し得ない要素なのかもしれませんが。

 蛇足ですが、聴衆、特に御年配の方のマナーの悪さはだいぶ問題がありました。鼻で大きく息を吸う、咳、チラシめくりなど。百歩譲って物音を許容範囲としても、演奏中に平然とおしゃべりされるとたまりません。ラ・カンパネラが始まったときにやたら大きなどよめきが起こったので、客層としてはクラシックビギナーが多かったのかもしれませんが…。




  Kemal Gekic recital

20050329concert【演奏会名】ケマル・ゲキチ リサイタル
【日時・場所】2005年3月29日 18:30~・ルネこだいら(東京)
【プログラム】
  1. 巡礼の年第2年7番 ダンテを読んで(リスト)
  2. 冬の歌1番 おやすみ(シューベルト=リスト)
  3. 6つの好旋律6番 ます S.564(シューベルト=リスト)
  4. 2つの演奏会用練習曲1番 森のざわめき(リスト)
  5. 2つの演奏会用練習曲2番 小人の踊り(リスト)
  6. 詩的で宗教的な調べ7番 葬送曲(リスト)
  7. 忘れられたワルツ2番(リスト)
  8. 死のチャルダッシュ(リスト)
  9. 伝説1番 小鳥に説教するアッシジの聖フランチェスコ(リスト)
 10. 伝説2番 波の上を渡るパオラの聖フランチェスコ(リスト)
 11. ハンガリー狂詩曲4番(リスト)
 12. ハンガリー狂詩曲11番(リスト)
 13. 「ウィリアム・テル」序曲(ロッシーニ=リスト)
  (アンコール)
  ・白鳥の歌7番 セレナード(シューベルト=リスト) 
  ・12の歌曲4番 魔王(シューベルト=リスト)


 ゲキチは日本での活動が目覚ましい第一線のピアニストです。常にロマン派の作品を主眼にしたレパートリーでリサイタルを構成しますが、殊リストに関してもショパンを超えるの熱の入れようで、リサイタルには毎回に含まれています。今回は日本ピアノ教育連盟主催によるリストをテーマにした勉強会(第21回全国研究大会「リスト~その深遠なるピアノの世界」)とコンテンツということで、内容は「オールリスト」でした。しかも上記ご覧のとおり豪勢な内容。しかも、個人的に敬愛している忘れられたワルツ2番やハンガリー狂詩曲4番を取り上げてくれるのは至福です。

 本人のプログラムへの意気込みは以下の通りです。
「リストの音楽はものすごく大きな広がりを持っていますので、それを示したいと思います。しかし限りがありますので、その中でどんな影響を受けたかという ことがわかるようなプログラムを作りたい。実験的にやった音楽もあれば大きなプログラムもある。と言う風なかたちでその一つのリストという音楽のパノラマ を示したいと思って考えました。」(日本ピアノ教育連盟HPインタビューより)

 冒頭からダンテソナタという力の入りよう!始めの和音連打部分でのペダル踏み変えから個性をアピー ルし、その後も打鍵の相違を際立たせることで随所に耳を引く仕掛けをちりばめます。リストファンが何を求めてダンテを聴くのか、そうしたツボをしっかり押さえています。そして、神妙なテンポが冴え、より物悲しさが強調されていたおやすみは、曲想を鋭くつかんだ秀演。しかしますは少々落ち着きがなく、テンポ設定がやや不自然です。右手の華麗な装飾音型を絞りすぎて左手の旋律が音楽を圧迫しています。森のざわめきは右手の反復音型をあまり注意深く練習していないようです。ホールの残響を味方につけることにも成功しておらず、聴きたい和声が潰れていたのは歯痒いです。ただ、小人の踊りは一変、快速に飛ばすことで曲の統一感が優れており、それを支える細かい運指、その駆け上がる音階の迫力は十分でした。葬送曲は ダンテ同様オクターブ技巧の高さを見せ付けます。連打や音階はまるで単音のように操り倒しています。以前ゲキチの特徴として突っつくような鋭い第一音の強拍がありましたが、そのような打鍵に関してを含め、全体的なコーティング方法が洗練されてきたように思います。葬送曲の出来に感動したのか、忘れられたワルツ2番へ続けて演奏に移ろうとした間にフライング拍手が起こり、奏者は幾分集中力を削がれた様子でした。よって右手の和音移動などでミスタッチが多くなったのは御愛嬌。死のチャルダッシュは独特のリズム拍を含めたフレーズ解釈が素直で、無調的で妖しい和音進行の面白さが伝わるものです。思えば葬送曲はホロヴィッツ、忘れられたワルツ2番はリヒテル、死のチャルダッシュはブレンデルといういうように、その名演は巨匠たちによって受け継がれてきたイメージがありましたが、ゲキチほどの腕前であれば、それはまさにゲキチ流。意のままです。何とかこのようなリストの興味深い作品群が積極的に弾き継がれることを願ってやみません。

 さて、後半ですが、まずは伝説1番。これは一般的にはトリル系装飾音の俊敏さがモノをいいますが、真っ向勝負というよりもペダリングで個性を出していたようです。しばしば踏みっぱなしで響かせる部分を切り離し、独立的対話を実現して一般的に目立つ冗長さを排除していました。伝説2番は完全にゲキチの独壇場。オクターブ構成の曲は極めて出来がよく、ダンテソナタや葬送曲に続いて両手交差の和音半音階も絶品です。加えて波を表す左手のスケールは抑揚がクッキリと浮かび上がり、ポリフォニックな演奏効果を生んでいました。ハンガリー狂詩曲4番は通常のテンポルバートを抑え気味にしてサラリと引き抜け、程よいケレン味、素早いオクターブフリスカという秀逸なバランスです。続くハンガリー狂詩曲11番では細かい右手単旋律の明瞭でありながら滑らかな動きが見もので、ライヴにおける興奮と相乗的に高まる運動性が堪能できる一曲でした。最後はお待ちかねウィリアム・テル序曲ですが、相当年数弾き込んでいるだけあって序奏からリリシズムに満ちています。E-durの主題は当然の如く96年のナクソスにある録音のテンポを凌駕し、ややイメージ先行でありながらすさまじい指さばきです。デュシャーブルのような余裕ある「遠目のすかした演奏」と違い、多少の大変さが伝わるという点が注文どおりといった感じです。最後の終結前に聴衆を見やると言った珍しいパフォーマンスを交えていましたが、ダンテソナタ同様、聴衆が楽しめるリスト演奏にきちんと応えることができるのは、まさにゲキチだからなのでしょう。

 アンコールは2曲。お得意のセレナードでは興奮気味だったゲキチも歌心に身を委ねます。魔王はかつて聴いた中でトップクラスの高速演奏。ここでも和音連打の早さが見事で、フィナーレへの再現部における崩壊寸前の加速が迫力の一言。魔王を弾いた後も汗一つ見えませんでしたが、「時間長いよ!勘弁して」との言葉を残して締めくくりました。

 難曲に挑み、実直に消化する。そうした姿勢で活動し続ければ、ゲキチが「リスト弾き」と呼ばれる日もそう遠くないかもしれません。教鞭をとりながらコンサート活動もかまけない。そうした態度はきっとさらなる名声へと結実していくでしょう。



  Leslie Howard Piano Recital

20041023concert【演奏会名】レスリー・ハワード・ピアノリサイタル
【日時・場所】2004年10月23日 19時~、武蔵野スイングホール(東京)
【プログラム】
 1. 「泣き、嘆き、悲しみ、おののき」の主題による変奏曲 S.180(バッハ=リスト)
 2. 伝説1番 小鳥に説教するアッシジの聖フランチェスコ(リスト)
 3. 伝説2番 波の上を歩くパオラの聖フランチェスコ(リスト)
 4. スケルツォと行進曲(リスト)
 5. 「リエンツィ」の主題による小幻想曲 S439(ワーグナー=リスト)
 6. 「ユグノー教徒」の回想 S.412(マイヤベーア=リスト
 7. 「ノルマ」の回想 S.394(ベルリーニ=リスト)
 (アンコール)
  ・6つのポーランドの歌5番 私のいとしい人(ショパン=リスト)
  ・「美しき水車屋の娘」より6つの好旋律1番 さすらい(シューベルト=リスト)


 新潟を地震が襲った10月23日、ハワードはビックリしたかな?なんてことを考えながらホールにやってきましたが、いざ開場時間になってもホールは締切り…。会場アナウンスによるとハワードが渋滞に巻き込まれたとのこと。しかしほどなく開場し、開演はほぼ時間通りでした。 観客には意外に年配の方が多く、若い人が逆に目立つようでした。聴衆には翌日行われるハワードのマスタークラス受講者やプロの演奏家なども混じっており、小さなホールの中はちょっとした緊張感がありました。

 ハワードが登場してまず驚いたのがその身長です。大きいとは聞いていましたが、確かにリスト全集を完成させるだけの貫禄があります。かなり恰幅も良い(!)

 さて、演奏について。1曲目の 「泣き、嘆き、悲しみ、おののき」変奏曲。第一音から抜群の重量感です。「ハワードは元来爆音系のピアニストなのか?」と思わされました。CDの録音でも3巻はかなり良好に仕上がっているのですが、特に「泣き、嘆き…」は、ハワードの安定感を最大限に表現できる名選曲であることに改めて納得。音階上昇下降、そして跳躍で見せる頭部の小刻みの揺れと、毅然とした上半身のガッシリした風格は、観客を集中させるには格好の演奏スタイルです。2、3曲目の伝説2曲。これもハワードによる2巻の録音が良好であったので元々期待していたのですが、期待は裏切られませんでした。1番は私自身それほど好んでいる作品ではありませんが、音の多さをものともしない小気味いい解釈には好感が持てます。細部を強調するような演奏が多い中、原点に戻るようなシンプルさが逆に新鮮です。2番は左手に傷を残す箇所がありましたが、こちらも冗長に熱弁するのではなく、シャキシャキとさばくことで清潔感をもたらします。 4曲目はスケルツォ&マーチ。こちらは会場したときにもらったプログラムで初見の追加(?)曲目だったので自分としては非常に嬉しい誤算でした。告知の段階できちんと知らせていればもっと早くチケット完売していたことでしょう。肝心の演奏ですが、一言で言うと弾き飛ばしていました。全集の28巻にある当曲の録音は自分が気に入ってる録音だったので、特に修正のない再現演奏を期待していたのですが、少なくともピアニッシモを大切にする弾き方ではありません。冒頭からミスタッチを連続し、両手交差部分も不明瞭な処理で流れてしまいます。原因は急遽追加のプログラムにありがちな、単純な練習不足でしょう。この日の演奏では当曲が最も「ぶっ飛んでいる」演奏であり、最終のテーマ融合コーダも聴いたことのない速度で猪突猛進していました。もし音源化されたならば、話題の音源になることは間違いありません。

 休憩を挟んで一発目は「リエンツィ」の小幻想曲。随分と2オクターブの平行移動が難しそうです。凡百のピアニストであればダラダラと淀んでしまいそうな音の多さですが、ハワードは短いペダルの踏み換えで音の濁りを一切排除します。また、主題を内声で隠すのではなく、あくまで両手オクターブで表現させようとしたリストの意図をしっかりと汲み、ポリフォニーに対する奏者の高い意識を垣間見たようでした。この辺りから演奏終了時に「ブラボー」が聞かれるようになります。

 「ユグノー教徒」の回想 はとかく演奏時間が長いのですが、それゆえ中々実演に出会えない貴重な演奏です。デモーニッシュな音階旋律を個人的に好んでいるのですが、こちらも期待を上回る出来。この頃になるとさすがのハワードも疲れてきたのか、左手が不正確になってきましたが、全体としては柔軟性が増した自由な演奏スタイルへ移行したように思います。ただ、ここで最も注目した点は彼の知られざる叙情性です。多くのピアニストが必要枠を超えてテンポを緩めて歌うであろう部分を、ハワードはあえてインテンポで歌います。まさに秘境的な叙情性。テンポをいじりまくる一般的なリスト奏法に対し、一石を投じているように感じました。そしてラストは 「ノルマ」の回想 。一度舞台袖に入り、復調。これもインテンポであることを忠実に守っているためか、重量感と小気味よさが両立しています。自重しすぎないリリシズム。15分前の最難関箇所は、予想通り壊れていましたが(笑)、その部分を除けば42巻の録音を凌駕する秀演でした。リストの楽曲に合った奏法の研究をしているだけあって、ハワードのポリシーとその説得力に頭が下がる思いです。

 アンコールは2曲。「さすらい」は所々ガタついていましたが、アンコールは2曲とも味わい深い演奏でした。特に一曲目の音量は実に繊細に絞りきられ、それまでの激曲が嘘のような絶妙なコントラスト。淡々とした遊興として、シンプルさが最後まで生きていました。

 初めてハワードの生演奏に触れてみた感想を一言でいえば、「彼の本業はリサイタルである」ということです。研究家としての側面や、リスト全集録音は確かに素晴らしい偉業ではありますが、皮肉なことにハワードの録音がハワードをどれほども語っていないことがよくわかります。今回は限定180席というかなり小さなホールでしたが、 大ホールであってもなんら遜色ないであろう音量と迫力を備え、きちんと準備する作品に関して完成度の点で見劣りするようなことはありません。また、タッチもしっかりと鍵盤に吸着するタイプで、ピアニシモで極端に不安定になったり、弱々しく聴こえるような録音でハワードの実力を判断していたことを今更ながら恥ずかしく思います。最も尊敬すべきことは、重いプログラムを後味よくすっきりと収めてしまう能力。非常に上品な作法です。
録音ではなくリサイタルでもっと聴きたい!ハワードの再来日を期待するばかりです。

サイン会の時にした握手。それほど大きくないけれども包容力のある手でした。




  Alexander Gavrylyuk Piano Recital

20040915concert【演奏会名】アレクサンダー・ガブリリュク・ピアノリサイタル
【日時・場所】2004年9月15日 19時~、サントリーホール(東京)
【プログラム】
 1. イタリア協奏曲(バッハ)
 2. 幻想曲(ショパン)
 3. コンソレーション3番(リスト)
 4. 巡礼の年第2年補遺3番 タランテラ(リスト)
 5. ソナタ5番(スクリャービン)
 6. ソナタ3番(プロコフィエフ)
 7. ソナタ6番(プロコフィエフ)
 (アンコール)
 ・練習曲Op.2-1(スクリャービン)
 ・練習曲Op.8-12(スクリャービン)
 ・前奏曲Op.32-12(ラフマニノフ)
 ・トルコ行進曲(モーツァルト=ヴォロドス)


 まず、ガブリリュクについて。1984年にウクライナで生まれた若手ピアニストなのですが、16歳で出場した第4回の浜松国際コンクールで満場一致の1位を獲得してからは、叙情性に満ちた超絶技巧で一躍注目を浴びるようになりました。浜松国際コンクールはガブリリュクの活躍によってその名が知れ渡るようになったというくらいに「若い」コンクールで、ガブリリュクという実力者の軌跡なくしては語れないほどです。

 ガブリリュクのコンサートへ足を運んだのは去年2003年10月31日オペラシティー以来2度目ですが、曲目を見てもらえれば分かるように、毎回プログラムが重い!巨匠でもこれだけ弾ききるには相当の集中力が必要とされるだろうし、これを学生席1500円で聴かせるあたりはクラシックファンにとって嬉しいものです。彼の演奏は、端的にいうと「丹精な超絶技巧」です。ささくれ立つ膨大な和声を極力淘汰し、音の多さではなく、聴かせたい音だけで勝負します。フォルティッシモを弱音で聴かせるゴドフスキばりの技巧です。ただ、バッハでルバートやペダルを多用してしまうと、かなり得手不得手がはっきりしてしまいます。というよりも、圧倒的に失敗するケースが多いと思われます。熱心なバロックファンは、きっとガブリリュクの演奏に首を傾げたでしょう。

 しかし、難所をいとも簡単に引き抜けるのは何事にも変えがたい驚嘆であり、これはピアニスティックな表現を好むか好まざるかを問わず魅力的な力です。ショパンの幻想曲などでは「間延びしない、早すぎでもない」テンポ設定にも関心しました。リストのコンソレーション3番は緩衝材的でありふれた解釈でしたが、それとは対照的にタランテラで自我が爆発します。ただし、前回リサイタル時に披露したダンテソナタ同様、和音連打に関して節操がなく、思慮が微塵も感じられないのが少し残念な気もします。しかしそれでもショパンより遥かに拍手が大きかったのは印象的でした。後半のスクリャービンソナタ5番は驚くべき滑らかさ。こちらも極めて大衆的で聴き易い演奏す。プロコフィエフソナタ3番は名曲紹介としては大成功ではないでしょうか。6番に関してはしっかりとした音量で不協和音で奏でる機能美さが十分に発揮されていました。アンコールはロシアもので決めてきましたが、選曲はスタンダード。なんと言っても一番の注目は十八番のヴォロドス編トルコ行進曲。前回リサイタルでは勢いに任せた乱雑な演奏でしたが、今回は左手が潰れずに聴こえていて、本家ヴォロドスの完成度に近づいたようです。相変わらず最後まで息が持たないのはご愛嬌ですが、(笑)全体的にミスタッチが少なかったです。

 まだまだ成長期であるのに、演奏家としてのスタイルが既にはっきりしているというのが面白みでもあり、面白くない点でもあります。両手のバランス、特に低音の音量コントロールに関して若干悩んでいるように感じられましたが、ほとばしる情熱的技巧を自分の演奏スタイルとしてどのように昇華させていくか、引き続き期待したいところです。





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